『アジア探索017~シンガポール編③』
トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿とシンガポールの「地政学的重要性」
1818年、スマトラの英国植民地の副知事であったラッフルズ卿は、マレー半島南端にあるシンガプラという人口200人ほどの漁村の地政学的な重要性に着目していました。ヨーロッパから来た船が中国など、マレー半島の東に向かおうとすれば、必ずシンガポール海峡を通過しなければならないうえ、マレーシアとジャワ(インドネシア)を結ぶ線と、インド洋と太平洋を結ぶ線との交点にあったからです。
1819年、ラッフルズ卿は、ジョホール王国内部の混乱に乗じてスィンガ・プラに上陸、植民地建設を推し進め、自由貿易港として開港、1824年にはオランダとの協定の下で東インド会社がスィンガ・プラの買収に成功し、正式な英国領となりました。
岩崎育夫氏の「物語 シンガポールの歴史」(中公新書)や、峯山政弘氏の「なぜ?シンガポールは成功し続けるのか」(彩図社)には、なぜラッフルズ卿がシンガポールの地政学的な重要性に着目し、この地に大英帝国の自由貿易港を作ろうとしたのかが詳しく記されています。そこには、オランダと覇権争いをしていた英国の戦略があったようです。勤勉で努力家であったラッフルズ卿は、現地の状況を詳細に把握したうえで東インド会社のトップを説得し、シンガポール確保政策を進めたともいわれています。この自由貿易港が、その後のシンガポール発展の土台となったことは明らかです。
ノース・ボート・キー沿いには、今でもラッフルズ卿が腕を組んで自慢げに立っています。