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2019.09.25

『東京探索041』上野エリア④ 日本初の公園とボードワン博士の胸像

『東京探索041』上野エリア④

日本初の公園とボードワン博士の像

一連の戊辰戦争で旧幕府勢力を排除した明治新政府は、近代化政策を急ぎ、欧米諸国の先進事例にならって都市計画を検討し始めました。

医学校・大学病院の建設は特に急を要しており、外国人も交えた選定チームが構成され、上野の山がいったんその候補地に内定したのです。しかし、オランダのボードワン医学博士が上野の山を視察した際、「東京のような大都市には公園が必要で、この山は是非公園として残すべきだ。将来国際都市になるであろう東京が、今なすべきことは、公共空間を残すことだ」と新政府を説得しました。文明開化で多くの近代的な施設が必要な時期でしたが、新政府は、ボードワン博士の提言を契機に内部検討し、「各府県に公園をつくるべし」という通達を出しました。

東京府は、上野(東叡山寛永寺)をはじめ、浅草(金竜山浅草寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山の4ヶ所を都市公園に指定しました。一時は上野の山のほとんどを所有していた寛永寺は、上野戦争の結果を受けて奥のごく一部に縮小されて大部分を公園として開放することとなり、1873(明治6)年、上野公園は日本初の公園として開園したのです。

ボードワン博士の提言がなかったら、今の上野公園はなかったと思います。1973(昭和48)年、開園百年記念事業を検討していた上野観光連盟も、まずは博士の像を作るべきだと考えていました。これを聞いたオランダ政府は、好意で胸像を制作、寄贈してくださったのです。こうして、ボードワン博士の胸像が中央噴水広場の西側に設置されました。

これには後日談があります。最初に設置された胸像は、実はボードワン博士ではなく、在神戸オランダ総領事を勤めていた弟さんのものだったことが30年後に発覚したそうです。ボードワン博士がしばらく下宿していた大阪のお寺のご住職が気づいたとのことで、このご住職が奇特にも全国から400万円の寄付を集めて正しい博士の像を制作してくださったとのこと。2006年に、現在の正しい博士の像が設置されました。弟さんの胸像は神戸ポートアイランドの公園に里帰りし、安住の地を得たとのことです。美談ですね。

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