『東京探索040』上野エリア③
寛永寺と「上野戦争」
「上野の山」のシンボルである寛永寺は、京都の鬼門の方角を守ってきた比叡山延暦寺にならって、徳川家康の参謀といわれていた天海大僧正によって建立されました。東叡山寛永寺の称号を得て徳川家の菩提寺となり、17世紀半ばには皇室から住職を迎え入れ、天台宗関東総本山として大きな権威を得ました。現在の上野公園のほぼ全域がかつては寛永寺の境内で、最盛期の寛永寺の用地は305,000坪(約100ha)、上野公園の約2倍の面積だったそうです。現在上野の山の中央に鎮座する東京国立博物館の敷地にはかつて寛永寺本坊があり、博物館南側の大噴水広場の位置には根本中堂がありました。
その寛永寺が幕末、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったのです。大政奉還の翌年の1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、最後の将軍徳川慶喜は大坂城を脱出して上野の寛永寺大滋院に蟄居していました。新政府への政権移譲に不満を持っている旧幕臣たちは、彰義隊を結成して上野の山を本拠として、最大3,000人の軍勢を擁していたようです。不穏な動きの中がくすぶる中で、3月に西郷隆盛が旧幕府陸軍総裁の勝海舟と会談、慶喜の水戸謹慎と江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避されたのですが、5月、ついに新政府軍は旧幕府軍が立てこもる上野の山を攻撃しました。
彰義隊が上野東照宮付近に本営を設置したのに対して、新政府軍は佐賀藩のアームストロング砲を用いて、加賀藩上屋敷(現在の東京大学)から不忍池越しに砲撃を行い、彰義隊は山王台(現在の西郷隆盛の銅像付近)から応戦しましたが、一日の攻撃で寛永寺の根本中堂をはじめ、主要な建物は焼失、彰義隊もほぼ全滅し、一部の残党は会津、函館へと敗走し、最後は五稜郭で全滅、一連の戊辰戦争は終結しました。今でも、西郷隆盛像の裏手には、「彰義隊の墓」があります。
さて、焼け野原となってしまったこの土地を、新政府がどのように利用しようとしたのか。それが次のステップにつながっていきます。