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2019.09.10

『東京探索039』上野エリア② 「上野の山」に文化施設群が多いのは何故?

『東京探索039』上野エリア②

「上野の山」に文化施設群が多いのは何故?

上野と聞いてまず思い浮かぶのは何でしょう?上野公園のお花見、西郷隆盛の銅像、不忍池、上野に発着する夜行列車などでしょうか?1982年に東京都が副都心を追加指定した際に「上野・浅草副都心」として位置付けられましたが、都心やほかの副都心とは一味異なる独特の雰囲気を持っているとは思いませんか?そして、確かに上野駅のコンコースは、欧州のいくつかの都市の駅のように、いかにも長距離列車のターミナルという雰囲気を持っています。

「上野の山」の標高は最高点24.5mで、江戸時代までは「忍ヶ丘」と呼ばれていましたが、東側の「下谷」に対して「上野」と名づけられたようです。上野台地は武蔵野台地から山の手状に枝分かれした台地の一つですが、江戸時代には江戸の縁辺部にあたり、鬼門の方角を守るべく寛永寺が建立され、江戸の街を見守ってきたのです。浅草とともに江戸の町民たちの遊興の場でもありました。

そして今は、この「上野の山」に、国立西洋美術館をはじめ、東京国立博物館、国立科学博物館、東京文化会館、東京都美術館、東京藝術大学など数多くの文化施設・教育施設が立地しています。

これらのうち、1961(昭和36)年完成の東京文化会館、1975(昭和50)年完成の東京都美術館(新館)を設計したのは前川國男氏で、パリでル・コルビュジエに師事した日本の近代建築の巨匠です。渡辺仁氏設計により1937(昭和12)年完成の東京国立博物館が「帝冠様式」と呼ばれたのと好対照をなしています。この東京国立博物館コンペの要項には、当時の日本の国情を反映して、「日本趣味を基調とする東洋式にすること」、「勾配屋根とすること」という条件がついていたそうなのですが、コンペ終了後に前川國男氏がパリから帰国し、コンペ要項を全く無視してル・コルビュジエを彷彿とさせる設計案を雑誌に発表して高評価を得たという逸話が残っています。

同博物館敷地内に1909(明治43)年に完成した表慶館は、英国の建築家ジョサイア・コンドルに師事した片山東熊氏の設計によるネオ・バロック様式の建物で、中央と南北両端に優美なドームがあり、稀に企画展で入れるだけですが、一見の価値があります。ほかにも、谷口吉生の設計による法隆寺宝物館、さらに奥へ行くと安藤忠雄氏+日建設計がリニューアルした国際こども図書館(旧帝国図書館)もあり、建築好きにはたまらない文化施設群が集まっています。

世界的にみても一つの公園にこれだけ多くの文化施設が集まっている例は他にありません。その理由や背景は何でしょう?実は寛永寺がキーポイントだったのです。続きは次回に。

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