『東京探索029』新宿エリア⑤
歌舞伎町の名付け親
1945(昭和20)年、日本の主要都市は空襲で壊滅、新宿一帯も焼け野原と化しました。国は特別都市計画法を制定して行政主導による戦災復興事業を推進、当時の内務省都市計画課長として奔走していたのは、都市計画学会の「石川賞」で有名な石川栄耀(ひであき)氏でした。
実は、戦災復興土地区画整理事業において実現したプロジェクトは、環状3号線の一部である文京区「播磨坂」100m道路の桜並木、麻布十番の広場など、数えるほどですが、新宿歌舞伎町もそのひとつです。そして、この歌舞伎町の開発プロジェクトは、民間主導で発案されたプロジェクトを行政マンである石川氏が後押しして実現したという点で稀有な事例です。
当時の角筈一丁目北町(現在は歌舞伎町の一部)の町会長であった鈴木喜兵衛氏は、最大の借地権者でしたが、戦後疎開先から戻るやいなや、旧住民に働きかけて借地権を委ねる「復興協力会」を設立、さらに大地主の協力も取り付けました。そのうえで、「一大興行街の実現」という将来ビジョンを掲げ、大規模な区画整理をした上に劇場・映画館など娯楽機能を集中させる民間主導の戦災復興計画を立ち上げました。歌舞伎座をこの地に誘致することを目指していたことから、新興文化地域にふさわしい町名を決めようとの声が旧住民の中から起こり、石川栄耀氏の提案により「歌舞伎町」と命名されました。こうして、1948(昭和23)年4月、ついに「歌舞伎町」が誕生したのです。
1956(昭和31)年に開業した「新宿コマ劇場」は、同心円状に配された三重の廻り舞台と6つの迫(せり)が回転と上下運動する舞台が名物となり、2008(平成20)年まで52年間に及んで、「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演されました。
「コマ劇前広場」も石川氏によって設計されたものです。欧州で学んだ石川氏は、広場こそ民主社会の表現であり文化の進んだ都市の象徴であると考え、歌舞伎町の広幅員街路のアイストップとして広場と劇場を位置づけたかったようです。
長らく歌舞伎町のランドマークだったコマ劇場ですが、ついに60年の歴史に幕を閉じ、2015年4月には跡地に「ゴジラヘッド」を持つ「新宿東宝ビル」が建設されました。1階と2階には飲食店、3階から6階にはIMAXシアター含む12スクリーン、約2500席の都内最大級シネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」を擁し、9階から31階には藤田観光が運営する約1030室のホテルグレイスリー新宿が入居しています。