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2019.10.15

『東京探索044』上野エリア⑦ 不忍池の競馬

『東京探索044』上野エリア⑦
不忍池の競馬

上野のシンボルの一つ、上野の山のふもとに静かに水を湛える不忍池(しのばずのいけ)がこの名で呼ばれるようになったのは15世紀頃だそうです。元々は、旧石神井川が本郷台地と上野台地の間を通って海沿いの低地へ注ぎ出ていた場所で、天然の鰻もいたとのこと。確かに池のほとりには老舗の鰻屋もありますが、昔はここで自分で取った鰻を出していたのでしょうか?

かつて、この不忍池の周りで競馬会が開かれていたそうです。1884(明治17)年当時、日本政府は「欧風化政策」を進めており、英国では競馬会が貴族の社交場になっていることが上流階級の人々に知れ渡り、東京でも競馬会を開こうということになって、「共同競馬会社」(Union Race Club)が設立されたのです。彼らは、不忍池の一部を埋め立てて競馬場を建設、競馬会は1892(明治25)年まで春・秋に行われ、華族、政府高官、高級将校、財界人らが参加、明治天皇も13回行幸されたそうです。

不忍池の形は時代とともに変化してきました。湖の真中にある「弁天島」は、寛永寺を建立した天海大僧正が不忍池を比叡山のそばの琵琶湖に見立てて中之島として築いたものですが、1907(明治40)年には東京勧業博覧会のため弁天島から西に向かって「観月橋」がかけられました。1929(昭和4)年にはこの橋は撤去され、代わりに弓形の桜並木の遊歩道ができて、池は四分割された現在の形になりました。毎年7月中旬~8月にハスの花を多くの人が見に来る回廊のあたりには、江戸時代、蓮見茶屋があったそうです。

競馬会の際の馬見所(メインスタンド) があった辺りは、現在は上野動物園西園のフラミンゴ舎になっています。不忍池も、それぞれの時代の上野の文化を見てきたのですね。

 

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