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2018.11.06

『東京探索018』日本橋エリア②「日本橋川」と「日本橋」

『東京探索018』日本橋エリア②

「日本橋川」と「日本橋」

日本橋エリアは今、最先端のオフィススペースと、外国人の関心も高まっている古きよき「匠」の技や日本文化の香りを併せ待つ街として再生しようとしています。今回は、少し歴史を紐解いて、そのルーツを探りたいと思います。

1590年、徳川家康が豊臣秀吉に江戸を治めることを命じられた当時、江戸は大田道灌の居城があったものの、人口6万人の湿地だらけの田舎町でした。10年後、関が原の合戦で勝利を収めた家康は、この地に幕府を置くと決め、市街地の大改造に着手しました。これが東京湾から丸の内あたりまで入り込んでいた「日比谷入江」の埋め立て、神田川開削などを含む「天下普請」です。江戸城のお濠を起点に右回りの螺旋状にめぐらされた水路は、城の防衛だけではなく水運にも使われました。この螺旋の先端を延ばすことで拡大可能な都市構造が、後に100万都市江戸を支えることになります。

このような巨大インフラ工事で造られた水路の一つが現在の「日本橋川」です。延長5kmほどのこの運河は、菱垣廻船や樽廻船などが江戸に各地からの物産を小船に積み替えて都心近くに下ろすのに絶好の場所であり、江戸幕府や江戸の町の物流を支える水運の拠点となりました。当時は鎌倉河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸など多くの船着場が設置され、活用されていました。周辺に残る小網町・小舟町などの地名もその名残です。

開幕の年に、家康は、この川に橋を架けました。これがやがて、「日本橋」と呼ばれるようになりました。その由来については、二本の材木を両岸に渡すだけのシンプルな橋が「二本橋」と呼ばれ、家康の街づくりによってこのエリアが次第に日本の中心にふさわしく整備されたために「日本橋」と改められたという説などがあります。いずれにしても、家康によってこの橋が五街道の起点(狭い意味では東海道と奥羽街道の起点)とされ、これが今でも残っている「日本国道路元標」につながっています。周辺に残る大伝馬町・小伝馬町などの地名は、馬による通信・荷役を扱う機能が発達していた証です。

さらに家康は、大阪の摂津・佃村から腕の立つ漁師33人を呼び寄せて佃島に住まわせ、漁業権を与える代わりに魚を幕府に献上させました。幕府は余った魚を漁師たちが売ることを容認し、彼らが市を立てたそうで、その「魚河岸跡」が「日本橋」の北東橋詰に残っています。これが、いまは豊洲にその役割を譲った築地市場のルーツなのですね。

海路・陸路の要衝であった日本橋には、自然に全国の物資が集まり商業が発展し、主として武士を相手に商いを拡大した商人の中から、越後屋、白木屋、大丸のような豪商が生まれました。また、鰹節の「にんべん」(1699=カッコ内は創業年)、刃物の「木屋」(1792)、高級フルーツの「千疋屋総本店」(1834)、「山本海苔店」(1849)などの老舗はすべて江戸時代に生まれており、江戸・日本橋の歴史を現在に伝えています。

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